教養

仕事とはいわば、《試合》である。

【仕事とは・・・】

いつだれに聞いたのか、あるいは本で読んだのか、もう忘れてしまったけれど、誰かがこんなことを言っていました。
「仕事とはいわば、《試合》である」と。

プロ野球選手が試合で勝つ為に日ごろの練習やトレーニングで自らを磨く様に、会社員も仕事という《試合》で最高のパフォーマンスを出すために、仕事以外の場で努力する必要がある、と。


……そんなような話だったと思います。

なるほど?、と、そのときの僕は思ったわけです。
当時の僕の感覚では、その「仕事以外の場の努力」というは、本を読んだり、勉強をしたり、セミナーに行って講師から話を聞いたり、見聞を広げたり、語学を学んだりと、特別な活動をする必要がある……そう受け取ったように記憶しています。

僕は当時も今も、時折どこぞの講座に参加しては、拙い自分の能力を少しでも上げようとしてきました。
その活動の結果の程はさておき、つまるところ「仕事以外の場の努力」の必要性は、わずかながらにでも僕は感じていたわけです。

【日常生活における立ち居振る舞い】

しかし最近になって、少しずつその考えに変化がでてきました。
「仕事以外の場の努力」の必要性は確かに重要です。
でも、《試合》でのパフォーマンスを上げる方法が、「仕事以外の場の努力」だとは、単純に思えなくなったのです。

ちなみに、ここで言う「仕事以外の場の努力」とは、先にもあげたように、読書、勉強、セミナーといった、「明らかに」自分を向上させる活動のことです。

では、《試合》でのパフォーマンスを上げる方法は、他にどんな事があるのか。
それは、「《日常生活》そのもの」なのではないか、というのが僕の最近の思いです。

どんな《日常生活》を送っているか、日常生活を送る姿勢や真剣さこそが、自分を高める為に最も重要なことなのではないかと、最近は感じるのです。

例えば、対人においては……
自分の奥さんに誠実でないものが、顧客に対して誠実になれるのか。
自分の子供にしっかりと教育できない者が、部下を教育できるのか。
自分の親を敬わない者が、目上の者を尊敬することが出来るのか。

例えば、立ち居振る舞いにおいては……
何をたべるか、どんな風に食べるか、歩き方、座り方、ただ立っているだけでもその人からにじみ出る優雅さ、その人が醸し出す佇まい。
歯を磨く行為から箸の持ち方から、部屋やトイレが綺麗かどうか、身辺が整理整頓されているか。

洗濯を干したり、食器を洗ったり、掃除をしたり、マンションで人とすれ違ったときに振る舞いであったり、コンビニで物を買ったときの店員への態度であったり、満員電車ですし詰めにされているときの心の動きであったり。
《日常生活》でつい出てしまう「癖」や「荒さ」は、《試合》においても必ず出る。

【帰るまでが遠足です、じゃなくて、終わってからが修行です。】

坐禅における修行で、こんな話を聞いたことがあります。
坐禅を終えて「終わった?」と気を抜いてしまうのは、普通。
「坐禅を終えてからが本当の修行だ」と思えるかどうかというところに、普通と普通じゃない人との差が出ると。

仕事とはいわば、《試合》である。そう、文字通り「試し合い」なのだと思う。
《日常生活》における鍛錬の結果を試す場が仕事なのだとしたら、仕事でのパフォーマンスを上げるためには、如何に《日常生活》を送るか、それにかかっているのかな、と。

……たぶんね。

人と共にあるときは、論語にある「温、良、恭、倹、譲」を。
独りの時においては、大学にある「慎独」を。
……そういった言葉を意識して、日々の生活を送っていくことができたら、今よりも少しはマシな人間になれるだろうか。

歩歩是道場(ほほこれどうじょう)』……
自分の心がけ次第で、今その瞬間にも、自分のいる場所は道場になる。
逆に、修行をする場所にいたとしても、心が邪であれば、気が散っていては、修行にならない。

自分の手足の指先まで、常に意識を行き渡らせ、瞬間瞬間を、一挙手一投足を、大事に生きていきたい。

 

 

 

 

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