学びて時にこれを習う 教養

「残念ながらあなたの余命は・・・」

先日このブログで、こんな事を書いた。

『どうすれば日常生活における全ての時間を、「特別な時間」として実感することが出来るか・・・
「なぜ、働くのか」という著書が、そのヒントとなりそう。』

日常生活における全ての時間を「特別な時間」と感じ、日々を真剣に過ごすことが出来る人間こそが、夢なり目標なりを達成できるのではないか・・・と、僕は考えている。最近、特にね。

そして、全ての時間を「特別な時間」として実感する方法。
それは、「なぜ、働くのか(著:田坂広志)」から引用すると「三つの体験」ではないかな、と。

引用します。
「なぜ、働くのか」P.23

経営者として大成するためには、
「三つの体験」を持っていなければならぬ。
「投獄」「戦争」「大病」という体験の
いずれかを持っていなければならぬ。

三つの体験に共通するのは、「死」

「なぜ、働くのか(著:田坂広志)」P.35

「生死」の体験を通じて、揺らぐことのない
「覚悟」と「思想」を掴みとったか。

「死ぬかもしれない」という極限の状況に置かれた人はたぶん、世界が違って見えるのかもしれない。
例えば、世界が光り輝いて見えた、という人もいる。

「なぜ、働くのか(著:田坂広志)」P.68-69
(悪性腫瘍で若くして他界された医師の手記)

検査の結果を知った後、夕刻、自宅に帰ってくる。
アパートの駐車場に車をとめながら、不思議な光景を見る。
世の中が光り輝いて見えるのです。
スーパーに来る買い物客が輝いている。走り回る子供達が輝いている。
犬が、稲穂が、雑草が、小石までもが美しく輝いて見えるのです。
そして、自宅に戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊く見えたのです。

普段僕らが目にしているもの、そこにあって当たり前の物が、死を前にした人にとっては光り輝き尊く見える。きっと彼が死ぬまでに過ごした全ての日々、全ての時間は、「特別な時間」だったのではないかと思う。

僕らは今の景色、今の生活が永遠に続くと心の底では思ってしまっているのかもしれない。
だから日々を無為に過ごすこともあるし、やるべきことを明日に先送りをすることもあるし、家族や友人を心から思いやってやらなかったりするのかもしれない。

かといって日常生活における全ての時間を「特別な時間」と感じるために、死にそうな目に合うというのだけは御免被りたいね。

そこで僕らが出来ることが、以前にも書いたけど、仏教学者の紀野一義師という方が若い頃に行っていた「明日、死ぬ」という修行だと思う。
これは「自分は明日死ぬと思い定め、今日を生き切る」という修行のこと。

これと同じようなことをやっている偉大な人物がいたことを、最近知った。
その偉大な人物とは「スティーブ・ジョブズ」。

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ。(日本語訳サイトから引用)

3番目の話は死について。

17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる」。
私は感銘を受け、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」
そしてその答えがいいえであることが長く続きすぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った。

奇しくも、そして不幸にもスティーブ・ジョブズは、膵臓ガンも患っていた。つまり先に述べた三つの体験のうちの「大病」。
彼は、死を間近で実感していたのだと思う。
彼の人生の終盤におけるあの業績や残した結果は、死と共に歩んできたからなのだろうか。

スティーブ・ジョブズだけではなく、偉大な経営者や人物は、きっと心のどこかで死を意識しているのかもしれない。
そして、日常生活におけるその瞬間瞬間を真剣に生きて積み重ね、毎日を完全燃焼しているのだと思う。

僕は今33歳。
80歳まで生きるとしたら、僕の余命は47年。

医者に余命を宣告されたとする――
「残念ながらあなたの余命は、あと47日生きられるかどうか……」
と言われたらあたふたするけど。

「残念ながらあなたの余命は、あと47年生きられるかどうか……」
と言われたら、鼻くそほじりながら「ふーん、それで?」とか言っちゃうのかもしれない。

うーん・・・そんなのはちょっと、やだなぁ。

余命が47日でも、47年でも、同じように1日24時間全てを「特別な時間」として大事に生きられたなら、きっと僕もスティーブ・ジョブズのように偉大な人物になれるかなぁ(あ、やっぱ無理?)

まあ、ジョブズになるのは無理でも、常に「死」をイメージして毎日を大事に生きたい。
特に子供とか、奥さんとか、友人とか、そんな人々に囲まれて。

おしまい。

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