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道徳と礼節

「政」と「徳」、「刑」と「礼」。

子曰く、これを道びくに政(まつりごと)をもってし、これをととのうるに刑をもってすれば、民免れて恥づる無し。
これを道びくに徳をもってし、これをととのうるに禮(礼)をもってすれば、恥づる有りて且つ格(いた)る。

上は論語の一節。砕いて訳すと、以下のような感じ。

国(或いは会社、組織、チーム)を導く為に法律(規則、ルール)を定め、法律を守らせるために刑罰(罰則、罰金)を用いれば、人々(国民、社員、メンバー)は法律の抜け道を探しだし刑罰から逃れ、そしてその行為を恥ずかしいと思うことすらなくなる。むしろ、その行為や方法を自慢げに吹聴するようなる人々も出てくる始末。
人々を導くために「徳」を重視し、徳のある世の中を築く為に礼儀礼節を用いれば、人々は恥ずかしい行為はしなくなり、自ずと社会は整う。

……と、まあ、だいぶ曲解ではあるだろうけど、こんなイメージかな。

法律大好き、日本。

日本は安易に法律を作りすぎる。
百歩譲って作るのは良いとしても、しかし法律を作っただけで満足している政治家が多いような気がする。

最近の「レバ刺し禁止」なんて好例なんじゃないかな、と。
「レバ刺しを食べた人が亡くなった」→「じゃあ、禁止」

Σ(゚д゚lll)ガーン

短絡的過ぎる。

重要なのは「禁止」にすることではなくて、レバ刺しを含めた「生もの」を食べる事のリスクを伝えること、だと思うんだよね。

例えば――
「ハチミツは生ものだから、赤ちゃんに食べさせてはいけない」というのは、昔から言われていること。
じゃあ、それが法律で規制されているかというの、そんなことはない。
でも僕は知っている。それは、たぶん母親から聞いたからだと思う。まあ、いつだれに聞いたのか分からないくらい、そのくらい「常識」なんだよね、蜂蜜と赤ちゃんの危うい関係は。

 

Pooh Bear

「はちみつたべた?」

礼節というコミュニケーション

母が子に伝え、子は親になったときに、我が子に伝える。
これが成せるのは、親とこの間に徳であったり礼節があるからこそ。

蜂蜜だけじゃなくて、生ものを子供や高齢者、免疫力が落ちている人に食べさせてはいけないというのは、昔から言われていること。
昔から伝わってきた叡智を、後生へ残していくためには、法律ではなく、道徳と礼がなければならない。

法律は、行動を規制しようとするだけで、何も伝えてはくれない。
何かを法律やルールでで規制すると、なぜその法律やルールが出来たのか、いずれ忘れ去られるかもしれない。その時に、おなじ様な被害が起きる。
道徳と礼節で叡智を伝えていく事が必要。

礼とはコミュニケーションのことでもある。叡智は、人から人へと伝わっていく。人との関係性の中で。
規制されるだけの世の中では、叡智は育たず継承されず、廃れ衰え死ぬ。

文章に支配されたくはないよね。

まあ、簡単なんだよね、ルールで規制してしまう方が。
ルールブックに「ダメです」と一文を書くだけで、事足りちゃうから。
でもそれは、教えるがわら楽をしようとするからなんだよね。労力を惜しんで、一文を書くだけですまそうとする。

まあ、一時は楽かもしれないけど、そんなんじゃ、まともな国や組織は育たない気がする。
国だけじゃない。会社とか、学校といった組織が、まともに成長していくとは思えない。
あと十年も経てば、日本は中学生の頃にあったおかしな校則のような法律で、溢れかえるかもしれない。

「中学校 校則」でググってみると良いよ。それが日本の未来だ。(ウソだけど)

人に教えたり育てたりというのは、なかなかに大変なもの。自分の子供を育てるのだって、ね。
楽な道を選択しないように、僕自身も気をつけよう。

将来、蜂蜜が法律で規制されることにならないよう祈りまする。
そうでないと、プーさんも困ってしまうのであります。

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