「なぜ、働くのか―生死を見据えた『仕事の思想』(著:田坂広志)」を読んだ。
仏教学者の紀野一義師という方は若い頃、「明日、死ぬ」という修行を行っていたとか。
自分は明日死ぬと思い定め、今日を生き切る。
『「想像力」の極みで、死と対峙する』
もしも僕が明日死ぬとしたら何をするか・・・と、考えてみた。
まあ、仕事には行かない。間違いなく。
悩むまでもなくそんな答えが出てしまうのは、今の仕事が僕自身の「使命」であると考えていないからかな。
僕は家に籠もって、子供の為に手紙を書こうと思う。
涙を誘う手紙にはしない。
生きていく上で読むべき本を机の上に並べ、それらを何歳くらいに読むように、とか。
あるいは、その時点までに僕が学んだことを人生論のような形とし残しりだとか。
・・・そんな手紙を財産として残せればいいと思う。
例えば、僕は四書のひとつである「大学」をまず小学校に入学するくらいまでに読んで欲しい。
ちなみに僕はこの「大学」を、いまから学ぼうとしているけど、読んでみると結構難しい。
だから小さい子供には向かないと感じる人も多いだろうし、そしておそらくその意見は正しい。
絶対に理解は出来ないんだと思う。
でもそれで良い。
江戸や明治時代に生きた人は素養が高いと良く言われている。
その時代に生きた人物のことを学んでみると(例えば吉田松陰やその叔父や父親とか)、骨太さや気概が感じられる。
そういった人物が多く輩出されたのは、四書五経を学んでいたことが一つの要因ではないかと感じる。
けれど、その四書五経に書かれていたことを「実践していたから」・・・ではないと思う。
あの時代において素養の高かった人々は、幼い頃から論語の素読などを行っていた。
素読は「ただ読む」というだけの行為で、その内容までは言及しない。
だから子供達はまったく意味も分からず読ませられる。
しかしその「意味も分からず」という所が、彼らの素養を高めた理由なのかもしれない。
「意味が分からない」が故に、「未知」の問題に対して自分で考えたり、答えを出したりする能力が高まった、のではないか。
「吉田松陰(著:山岡荘八)」の中では、幼い頃からの四書五経の教育の意味ついてこう書かれてる・・・
「(中略)まず文章を肉体にしみこませる。そうなると血液化した文章が、やがて生長してゆく人間の内部から、はげしい自問自答を展開してくるはずなのである」
幼い頃に詰め込んだ四書五経が、自分の成長や経験と混ざり合い、ようやく理解が深まっていくのだと思う。
その深まっていく過程において、彼らは「未知」の問題を解決する能力というか、思考力のような能力が高まって行ったのかもしれない。
世の中には既知の物事が多く、グーグルで検索すれば簡単に答えらしきものが出てくる時代になった。
でも本当に重要なことはグーグル先生でも答えを知らない。
例えば……
「なぜ、我々は働くのか」という問い。
田坂広志氏はこの問いを「生涯の問い」と書いている。もしかすると、死ぬまで問い続けなければならない問いなのかもしれない。
同時に田坂広志氏はこうも言っている。
「知性」とは迅速に問題を解くことではなく、「問い続ける力」の事だと。
だから僕は、未知の問題を解決しようと常に考え問い続ける力を養う、その種まきとして、自分の子供には幼い頃から四書五経を読ませたい。
もし明日僕が死ぬのなら、僕は手紙を書き本を遺す。